statement

制作について ノート

October, 2023

水や湯で何かを洗っているときに、ふと考えがまとまることがある。これは重要だ、と手を止められるまで忘れないよう反芻するのだが、いざ文字に書き出すと何だか違って、こんなことだったかしらと訝しく思う。水の音、水に触れることはわたしの思考を自由にするようだけど、それを記憶させてはくれないらしい。
ギリシア神話にはその水を飲むと全てを忘れるLetheという名の川がある。水際とか水面のかたちを借りて繰り返し描いてきたのは、実像と虚像が入り組む境界への関心が大きいのだが、描くたびにやりかたを微妙に忘れては結末へ辿り着いてきた経験自体も関わるように思う。描きあげた絵は忘却の塊のようなもので、表面に隠れた道程の記憶は薄れていく。忘却による幸いを一つ挙げるなら、次に描く一枚でまた別のルートを新鮮に体感しうる可能性なのかもしれない。
(個展 “舟の上/ On a Boat”ステイトメントより)

reflection on mud water, Tsukuba 2012
reflection on mud water, Tsukuba 2012

December, 2020

When painting, I often have to decide whether to connect the objects smoothly or strangely. A smooth connection is like Mozart’s phrase, and his Etude was boring to me. But that doesn’t mean lively and subjective strokes always bring a good result to the painting. Sometimes they give fresh effect to it, but they can also get into a kind of stereotypical expression.

The elements in my painting such as lines, planes, blurs, and sharp edges prevent from seeing it clearly. What words do they bring out? For me, division, parallel, coexistence, holes and absence, etc. My work is like a temporary aggregation which contains these nuances.

To find the structure hidden under the surface and to trace it, I choose colors, shapes, movements, and thicknesses, while exploring the possibility of both boredom and nonsense. This is the current challenge for me.

2020年12月

描くとき、何かと何かをよく繋げようとするか、それともおかしな接続を狙うか、選択を繰り返し進める。うまい繋がりはモーツァルトのフレーズのようなもの、起承転結に馴染みがある。練習曲は退屈だった。だからといって勢いに乗ったタッチが常に成功するわけではない。新鮮な効果を留められることもあるが、ある種のスタイルに回収され古びてしまうこともある。

たとえば、画面を一望することを妨げる線や塗りつぶし、ぼかし、盛り上がったエッジは、どんな言葉を引き出すだろうか。私にとっては分断、パラレル、共存、穴、欠落、etc. 画面上の要素の振る舞いはあるニュアンスに対応している。絵はその暫定的な集合体のようなものだ。

画面に潜っているおおらかな構造を眺めてなぞる。そのために、退屈とナンセンス、両者の可能性を逡巡して、描く色・かたち・動き・厚みを選択する。言葉を尽くして流れを区切ったり繋げたりしながら異なるベクトルを両立させること、この周辺を右往左往しているのだと思う。


February, 2016

I’m fascinated with things that have opposite two-sides like “far / near” “hard / soft” “interesting / frightening.” When I find something like that in my daily life, it becomes a starting point of a new work. However, I don’t intend to represent it. It’s just a trigger for putting colors on a canvas and deciding composition.
When I do some action on the canvas, it tells me what I should do the next. This may be something like a dialogue with the progressing work. My paintings are mostly weaved up by this process.
Also, relationship between the two-sided matters and a feature of the material, oil paint, is important. As it dries very slowly, I can easily blend a form with another form, and the first stroke of the day with the last one of the day. This is like mixing space and time. Oil colors seem to accept contradiction, and this feature is suitable for expressing the essentials of the two-sided matters. Working on this media, every time I’m trying to let my paintings go as far away as possible from the starting points.

2016年2月

たとえば〈とおい/ちかい〉〈かたい/やわらかい〉〈おもしろい/こわい〉などといった対極的な二面性を保有する、身近なものごとへの興味を絵の起点としている。眼前の画面そのものをほどいていくように描くこと。自分の骨組みをかえて、目をつぶらないと選ばぬ色、つくらないようなかたちで制作中の絵に対しリアクションを重ねていけるか、作品はそういう試みの結果だ。
乾きの遅い油絵具は都合がいい。一日の最初と最後の手とを、あるいはものとまわりとを混ぜてぐっと絡められる。それは言いかえれば、絵の中の時間や空間をほぐすこと。たくさんのものが生まれて少しずつ失われていく、現実の本質=〈 〉に触れるための私なりの方法だ。描くことは、それをどこまで遠くへ行かせてやれるだろうか。

st201603c


November, 2014

The paintings I make start from “the sense of something being provisionally presented as one” – landscape, constellation, history, living creatures, for instance.
Lots of touches of colors, which contain both the conscious behavior and the unconscious happenings, weave up a painting. The component, on some view points, looks like constellation and history.

2014年11月

〈遠く離れて点在する星は、地球から見てひとつの星座にかたちづくられる。〉
〈別の時代に起きたできごとは、今の人にひもづけられて歴史として話される。〉
〈フェンスの奥に木立や家が見える。遠くに焦点を合わせるとフェンスはぼやけて、その大きさもある場所も判らなくなる。〉
〈生き物は呼吸によって体内と外の原子を交換しているから、よく見ると輪郭は震えていて一本の線で閉じることができない。〉
こういった「何かが暫定的にひとつとされているように見える感覚」が、色やかたちを置く起点になっている。あるばらばらの筆跡が―「描く」という意識的な振るまいと無意識的な偶然の混在とが、ひとつの絵画をなしていくようすは、星座や歴史とどこか似ている。
眼前の画面そのものをほどいていくように描くこと。私的な体感=〈 〉から出発して、違う感触のふたを開けることができるか。いつでも自分の骨組みをかえて、目をつぶらないと選ばぬ色、つくらないようなかたちで制作中の絵に対しリアクションを重ねていけるか、作品はそういう試みの結果だ。


2014年1月

描くとき、それを徐々にかためていくのではなく、ほどいていくようでありたい。
日々みつける不可解な魅力、ナンセンス、時間の流れていくことの秘密に、例えば猫のようなまなざしで立ち止まり向き合うように、その一つの私なりの方法として。


2012年9月

明るい昼に見る木立のシャープな暗がり、反射する濁り水、野菜、身近な世界への親しみと不本意な触れがたさ。何かどちらともいえない問題や魅力と向きあうときにそれが作品のたねになります。喜ばしいのかさびしいのか、そのものの曖昧さを借りて絵具をのせ、問いにしたい。無意識的なものやわかりきれないものに絵の中で出会い、それをあらわにしておきたくて描いています。想像した世界のうつくしさ、完璧さを描こうとしていない。